「国際数学連合」に初の日本人総裁 (森重文・京都大数理解析研究所教授(63))
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The Japanese president of the first in the "International Mathematical Union" 

As Governor mathematician the world's largest organization of "International Mathematical Union", forest compound sentence, Kyoto University Research Institute for Mathematical Sciences Professor (63) was elected. 

I decided on the 11th General Assembly held in South Korea, Gyeongju city. Japanese to became the president for the first time. Term of office is four years from January 2015. 

Once every four years, the International Mathematical Union hosted the International Congress of Mathematicians, and has published the Fields Medal, which is also referred to as "the Nobel Prize of mathematics". 13 to 21, Congress of Mathematicians of this time will be held in Seoul. 

Professor Mori In Nagoya born professional algebraic geometry. Through the United States Harvard assistant professor, and Nagoya University professor, incumbent from 1990. Including the Fields Medal for a Japanese third person, I have won and Fujiwara award for researchers in the natural sciences.
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「国際数学連合」に初の日本人総裁

世界最大の数学者団体「国際数学連合」の総裁に、森重文・京都大数理解析研究所教授(63)が選出された。

 韓国・慶州(キョンジュ)市で開かれた総会で11日に決まった。総裁に日本人が就任するのは初めて。任期は2015年1月から4年間。

 国際数学連合は4年に1度、国際数学者会議を主催し、「数学のノーベル賞」とも呼ばれるフィールズ賞を発表している。今回の数学者会議は13~21日、ソウルで開かれる。

 森教授は名古屋市出身で、専門は代数幾何学。米ハーバード大助教授、名古屋大教授などを経て、1990年から現職。日本人3人目となるフィールズ賞をはじめ、自然科学の研究者に贈られる藤原賞などを受賞している。


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近世日本人数学者列伝~森重文~
(前編)
その数学者は厳粛な面持ちでメダルを受け取りました。彼こそ日本で3人目のフィールズ賞受賞者、森重文でした。当時大学生だった私はその授賞式を目の当たりにしていました。第21回国際数学者会議(ICM90)は、1990年8月21日から8月29日まで国立京都国際会館で開催されました。9日間に及ぶ大会は、世界中から4000人が参加し、ハイライトである授賞式ではフィールズ賞が森重文、ドリンフェルト、ジョーンズ、ウィッテンの4氏に、ネヴェリンナ賞はラズボロフに与えられ幕を閉じたのでした。
 大成功に終わった第21回国際数学者会議(ICM90)を振り返ると、これまでの日本人数学者が築き上げてきた日本の数学が世界をいかにリードしてきたか、つまり日本が数学大国の地位を占めているかを物語っていると言えます。このとき、最初の日本人フィールズ賞受賞者である小平邦彦(連載 第28回、第30回)が組織委員長を務め、二人目のフィールズ賞受賞者広中平祐(連載 第31回、第32回)が森重文の業績紹介を行っています。

 先駆者としての小平と広中は世界に認められ日本の数学を牽引してきました。彼らの尽力の甲斐あり、ついに日本で開催されることになった国際数学者会議だったのです。そこで、森重文にフィールズ賞が授与されるというのはベスト・タイミングだったとしかいえません。いくら日本での開催だからといい日本人に受賞させようなどという「あまい」はからいはありえなかったことを言っておかなければなりません。連載第28回でも説明した通り、国際数学者連合(IMU)が数年をかけた慎重な審議を行い受賞者は決定されます。
 歴代二人の日本人フィールズ賞受賞者をはじめ、後に第1回ガウス賞を受賞することになる伊藤清(連載参照:「数学~その遙かなる風景~」パート4「数学は言葉」最終回)がICM90 名誉会長、そして2,300名の日本人参加者の中で日本人森重文にフィールズメダルが授与されることはまさに感慨深い思い出でした。

●日本で研究をしたフィールズメダリスト、森重文

1951年 名古屋に生まれる
1973年 京都大学理学部卒
1975年 京都大学理学部助手
1977年 米国ハーバード大学助教授(~1980)
1978年 京都大学にて博士号取得、指導教官は永田雅宜
1979年 ハーツホーン予想を解決
1982年 名古屋大学講師
1983年 日本数学会彌永賞
1984年 中日文化賞受賞
1987年 3次元の代数多様体の極小モデルの存在証明に成功
1988年 日本数学会秋季賞、名古屋大学教授
1990年 フィールズ賞受賞、京都大学数理解析研究所教授、日本学士院学士院賞、文化功労者
1998年 日本学士院会員
2004年 藤原科学財団藤原賞受賞
 この経歴をみて気づくことがあります。日本国内での研究だけでフィールズ賞をとったことです。小平邦彦は頭脳流出第一号といわれたほどアメリカでながく研究生活をおくりましたし、広中平祐も同様に世界に飛び出ることで海外の優秀な指導者に巡り会うことができ、フィールズ賞をとることにつながったと言えます。それに対して、森重文は3年間のハーバード大学助教授の経験はあるものの、研究は日本国内で行われています。このことは日本数学の層の厚さを実証することにもなったわけです。真に日本で研究をしてフィールズ賞を受賞した唯一の数学者こそ森重文なのです。

 それにしても森重文はどのようにしてフィールズ賞にまでたどり着いたのでしょうか。ひとつのエピソードがそれを教えてくれます。森は東海中学校・高等学校を卒業しています。私は数年前ここで講演をする機会があったのですが、驚いたことにそれは東海中学校の生徒が直接私本人に講演依頼をしたことで実現したのです。そんなことはこれまでにこの東海中学校だけです。学校の先生にきけば、その講演会は例年、中学生に運営のすべてを任せて開催されるとのことでした。私に講演依頼してきた中学生はとてもしっかりした印象でした。なるほど生徒の自主性を重んじる学校の姿勢が本物であり、著名な卒業生のラインナップがそれを物語っています。そのような校風の中、高校生の森重文は月刊誌「大学への数学」の懸賞問題に応募し満点を取りまくっていました。大学紛争で東大の入試が中止になり京大に進んだことも後に大きな運命の分かれ道になりました。京大で広中平祐の代数幾何の講義を受け、その明解さに感銘を受けた森は代数幾何の道に進んで行きました。決してエリート教育を受けたわけでなく、普通の日本の教育の中で森重文は好きな数学の問題を考え続けてきたといえます。日本の教育システムの問題点が語られ続けて久しいですが、森重文の歩んだ道のりを振り返ってみると日本にはちゃんと学問ができる環境はあることがわかってきます。

 昨年私は彼に会う機会があり、様々な話を聞くことができました。私が数学は森先生にとって何でしょうかと尋ねたところ、即答してもらえませんでした。そこで、数学は仕事ですかと聞くと、そうではないといい、さらに趣味ですかと聞けば、趣味でもないと答えてくださったことが印象的でした。すぐに、フランスの数学者ポアンカレの言葉を思い出しました。「数学者になることはできない。数学者として生まれるのでなければならない」
 次回、森重文・後編では氏の業績「3次元代数多様体の分類」を紹介していきます。 

(後編)
●フィールズ賞受賞理由「3次元代数多様体の極小モデルの存在定理」


ICM90 会場、国立京都国際会館での舞楽「五節の舞」

フィールズ賞選考委員会委員長ファデーエフからフィールズメダルを受け取る森重文

ICM90 京都で自らの理論を説明する森重文

広中平祐による森重文の業績紹介
 森重文の専門は広中平祐(連載第31回、第32回)と同じ代数幾何学です。多項式の零点の集合を代数多様体といいます。例えば図形としての円は、多項式でx2+y2.r2=0 を満たす点(x,y) の集合(零点の集合)と言い換えられます。多項式でx2+y2.r2=0 は2次式なので、その曲線は2次曲線と呼ばれます。多項式x2+ay2.1=0 の零点の集合はa の値によって双曲線、平行線、楕円に分類されます。多項式の係数と多様体(代数曲線)の形の関係が見えてきます。

 このように、多項式から多様体(「図形」を一般化・抽象化した概念)をみるのが代数幾何学と呼ばれる分野で、ここでの幾何(図形)を代数多様体といいます。代数幾何学とは、次元の高い(つまり見えない)代数多様体の性質を調べる分野ということになります。そして、「代数多様体の分類」こそ大きな目的となっているのです。森重文自身は次のように説明しています。
 代数幾何とは何かは説明しにくいように言われているけれど、四則演算しか使わないのだから、「図形」が目に見えないということを気にしなければ、それほどでもないと思います。代数幾何とは「連立方程式で表される図形」だから、いくつか絵を描いてそんなものだという感じをつかんでもらえればいいんです。抽象画のような絵しか描けないんですけど、論理を追う論理力と想像力というか柔軟さがあれば、そんなに難しいことだとは思いません。
「森重文インタビュー」
(「数学セミナー」1991年2月号臨時増刊 国際数学者会議ICM90 京都、日本評論社)

さて、その代数多様体の分類は多項式の次数が上がるにつれて難易度が急激に増してきます。先ほどの例の「2次曲線の分類」は直交座標をうまく選ぶことがポイントになります。3次以上の代数曲線では、射影変換といわれる手法でやはりうまい座標を選ぶことがポイントになります。このように分類理論を建設するためにさまざまな新しい強力な手法が発見されていくことになりました。小平邦彦(連載第28回、第30回)は解析多様体の分類に成功し、広中平祐は代数多様体の特異点を解消できることを示して代数多様体研究の土台を築き上げたのでした。そして、広中平祐が行った特異点解消理論は「双有理変換」という手法が大きなポイントだったのですが、森重文は新しい手法「端射線の理論」を作り上げて困難とされた3次元多様体の分類と双有理変換の研究を可能にしていきました。そして、ついに1988年に「3次元代数多様体の極小モデルの存在定理」が証明され、1990年のフィールズ賞受賞に至りました。
 まさに、小平邦彦、広中平祐の研究の先に森重文が存在していたことになったわけです。この3次元の場合、その分類はだれもよせつけないほどの困難さがあったにもかかわらず、森重文は独自の研究を続け、独創的な手法と独自の研究方針(いわゆる「森プログラム」)をつくりあげていったのです。小平、広中がそうであったように森も自らの状況のすべてを「災い転じて福となす」の行動で道を切り開き突き進んできたといえます。森は若者へのメッセージを次のように答えています。
 興味を持ったり疑問に思ったりしたことを大切にすることでしょう。多くの場合、簡単に答えらしいものが出せるかもしれませんが、より良い答を求めて、未決として覚えておくのも大事だと思うんです。そして、研究課題を選んだり解こうとして考えたりする場合に、重要だとか解けそうだとかいうことを考えますが、結局最後に残るのは自分の直観でしょう。ここで直観というのは、要するに好きか嫌いかだと思うんです。自分が好きできた道なら最後の階段での一踏ん張りがきくんじゃないでしょうか。有利だ、不利だということで決めるとなかなかそうはならない。こんなはずじゃなかったとかって。
「森重文インタビュー」
(「数学セミナー」1991年2月号臨時増刊 国際数学者会議ICM90 京都、日本評論社)

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近世日本人数学者列伝~森重文~(前編)

近世日本人数学者列伝~森重文~(後編)
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私は、志村五郎先生がいいかな。
研究内容がいいからかな。日本のガウスのような人!
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近世日本人数学者列伝~志村五郎~
(前編)

孤高の数学者

 数学オリンピックというのがあるがその問題はすべて人工的で、何か思いがけないうまいやり方を見つけないとできないのである。私はそういうのは好きでない。しかしその企画があった方がよいかない方がよいかというと、それはたぶんあった方がよいのだろう。ただし、本当に数学をやろうとする少年少女達はそんなのは無視して差し支えない。
志村五郎著「記憶の切り繪図」
 志村五郎(1930~)は以前に本連載第5回~第9回「フェルマーその頂上への遙かなる道~谷山豊に捧げるレクイエム~」で取り上げた。

1930年 静岡県浜松に生まれる
1952年 東京大学理学部数学科卒業
1957年 パリ、ポアンカレ研究所『近代的整数論』(谷山豊との共著)
1958年 プリンストン高等研究所
1959年 東京大学助教授
1961年 大阪大学教授
1964年 プリンストン大学教授
現在、アメリカ在住、プリンストン大学名誉教授 専門は整数論

 志村五郎こそフェルマーの最終定理の証明に必要だった数学者であった。彼の数学が無ければフェルマーの最終予想はずっと予想のままで定理とはならなかったからだ。彼ほど職人としての数学者道を突き進んでいる者を私は見たことがない。本連載でも繰り返し述べてきたことであるが、数学は人によって創られる世界である。けっして公式を覚え習ったとおりの解法に従い答をだせば済むような世界ではない。数の世界の信じられない理解しがたい現象に対峙する時、その背後に潜む仕組みを解き明かそうと思うのが数学者である。自らの直観と技だけを頼りに思考を結晶化させる。はたしてそれは論理の道筋をたどった定理という名の永遠の輝きをもつ宝石が発見されることになる。

  志村は一貫して自らの数学を創ってきた。フェルマーの最終定理はいわゆる「谷山・志村予想」をワイルズが証明することで証明された。私が志村と電話で話した時、彼は淡々と、しかしその奥に確かにある憤りをかくすことなく私にくりかえしこういった。「この世界のプロならば私の定理を谷山・志村予想などとは言わない。志村予想と呼ぶ」数学の世界は人がつくっているものだといったが、それが意味するのは人間の業が渦巻く世界であることも意味する。この「谷山・志村予想」は詳しくは本連載第5回~第9回を参照してもらうことにして、志村の友人・同僚であった谷山豊が最初にいったとされる経緯で先に谷山と付けられている。私が知る限り整数論の「プロ」の中でも、今でも「谷山・志村予想」と呼ばれている。日本人のなかで「志村予想」と呼ぶ人を一人も知らない。

しかしだ、志村は言う。私がやってきた論文をちゃんとみればあの予想はすべて私が一人でつくってきたものとわかる、と。君はちゃんと調べて私にものを言っているのか、と志村に何度も言われた。確かに谷山は1955年日光で開催された代数的整数論国際会議で「有理楕円曲線はモジュラーである」と言った。そして、それにはある条件が必要とも言っていた。この言説は精確な予想というよりステートメントに近いものだった。志村はその谷山の言説とは全く関係なく自らの計算を行っていたのだった。そして、ついに「すべての有理楕円曲線はモジュラーである」との精確な予想にたどり着いた。谷山が言っていた「ある条件」は必要ないのである。そのとき語るべき相手谷山はこの世を去っていた。

 私は繰り返し志村に尋ねた。「それでも谷山のステートメントがあったからあなたはその研究をしたのではないのですか」と。答は、断固それはない、一切関係がない、であった。事実は有理楕円曲線とモジュラーについてコメントしたのは谷山が最初だった。しかし、それとは一切関係なく、比較にならないほど考えられた末の結果が「すべての有理楕円曲線はモジュラーである」、志村予想だったのだ。その電話インタビューの後2008年に出版されたのが冒頭で紹介した「記憶の切繪図」だった。まさにその中に私が聞きたかったことへの返答が志村らしく精確に事実として述べてある。
 ここで「有理数体上の楕円曲線はモジュラー関数で一意化される」という私の予想について説明しておこう。これは一九六四年九月頃に私がふたりの数学者に話したもので、その事はよく知られている。この予想はその三十数年後に証明されて、今では定理になっている。 ところで、これに関係ある言明を谷山豊がしているが、その意味と上記の私の言ったこととの関係を完全に理解している人は数学者も含めてほとんどいないのではないかと思われるので、その事を詳しく説明しよう。また私の口からはっきり言ってほしいと思っている人も多いであろう。
(中略)
 私はこの問題に関する限り谷山と議論したことはない。はじめに書いたように私は私流の理論をひとりで構築していたから、彼のこの言明には全く重きをおいていなかった。その上、モジュラー関数以外のヘッケのいう保型形式は役に立たないと始から考えていたから無視していた。実はそれ以外に重要な保型形式があるが、そのことはここで考えない。また私は谷山と共著の本があるが、それは全く無関係である。もうひとつ書くと、一九五五年以後一九六〇年代にかけて、そういう代数曲線のゼータ関数を研究し、それを決定するなどという研究をしたのはおそらく私ひとりであったと思われる。谷山はそういうことはやらなかった。彼はヘッケの論文は読んでいたが、一変数の保型形式・関数の理論を自分のものにしていなかったように思われる。…
志村五郎著「記憶の切り繪図」付録三 あの予想
 詳しくは「記憶の切繪図」を読んでもらうのが一番いい。世界のプロ中のプロだけに認められた日本生まれの数学者志村五郎は、つねに自分の信ずる道を進み続けてきた。彼が日本人におくるメッセージを次回は紹介していく。

●日本人は世界で最も想像力に富む国民の中に入るのではないかと思う

 志村五郎ほど明解な言葉を語る数学者を私は知らない。数学はそれをあまり知らない人にとっては呪文のようにしかおもえない言葉である。そのことをよく知っている数学者は知らない人に語る言葉が自然と妥協じみたものになってくるのは当然といえる。しかし、志村五郎の語る言葉はいっさいの妥協を許さない。きわめて率直で、精確である。それゆえにその言葉は聞く人の心に響く。

 アンドレ・ヴェイユ(1906~1988)という20 世紀を代表するフランスの数学者(思想家シモーヌ・ヴェイユは彼の妹)は多くの日本人数学者と交友関係をもった。中でも志村五郎(1930~)との付き合いは40年に及んだ。1950年代初めすでに世界の数学界の中心にいたヴェイユに、大学を卒業したばかりで助手になりたての志村五郎は一つの論文を送った。それに対してヴェイユから格別の賛辞の返事が届いた。世界一流の数学者に認められてもなお人にそれを語ることをしなかった志村とヴェイユの最初の出会いであった。
 前回私は志村は職人であるといった。彼の数学の特徴はとにかく自分の手でつくることを基本としたところにある。自分がいいと認めるもの(彼にとっては定理のような数学的真実)をつくりだすことが最も重要で、他人がそれをどう評価するかが志村の感情を動かすことはなかった。志村は言う。
 私は今どんな数学の仕事をしているとか、どんな論文を書いたかなど家族に話したことはない。家族以外でもあまりはなさない。自分で分かっていてそれで十分なのである。
志村五郎著「記憶の切り繪図」
 職人である志村の目はずばり人を見抜いた。数学者高木貞治のことを「小人」と言ってのけることができるのは志村五郎だけだろう。数学には他の学問にあるような権威や派閥というものは本質的に存在しない。だから先輩だから年下だからということは数学の議論の中ではいっさい理由にならない。もちろん現実は、たとえ数学の世界といえどもそういったものはある。志村が力もないのに偉そうにしている年寄りを特に嫌った理由はそこにある。
 「君子は泰にして驕らず、小人は驕りて泰ならず」という論語の言葉を引き合いにして、高木貞治の偉ぶった態度に失望したことを言っている。志村は学生時代、東大の教授達のやる気のなさにほとほとあきれかえった経験をしていることからもそう思うのは無理がないといえる。GHQ のマッカーサーにいたっては、小人以下であると吐き捨てている。

 志村には驚きの現実が突きつけられる。先に述べたヴェイユが、はじめはあり得ないと否定した理論を後になってあたかも自分もそれに貢献したかのような言動をしたのであった。それこそあのフェルマーの最終予想解決のきっかけになった「谷山・志村予想」である。これはもともと谷山豊がいったことにはじまり、志村が精確にした予想であったことからこう呼ばれるようになった。ところが後になり「谷山・ヴェイユ予想」、「谷山・志村・ヴェイユ予想」、などとヴェイユの名前が入り込んできた。挙げ句の果てには「ヴェイユ予想」とも呼ばれることにもなった。
 これははじめはまったく理解できなかった「谷山・志村予想」が理解できるようになったヴェイユがいろいろな席でこのことを語るようになったことが原因とされている。それほどヴェイユの権威はあった。すべての事情を知っている唯一の生き証人志村にしてみれば許すことができないことだった。ラングという同僚の数学者が「ヴェイユはこの予想には何の貢献もしていないのではないか」と言ったこともあり、現在ではヴェイユの名前は付けられず、「谷山・志村予想」と一般には呼ばれるようになっている。
 しかし、これでも志村の怒りはおさまらない。彼にとっては「谷山」も必要ない。これが前回述べた内容だ。志村五郎ただ一人で考えだされた「谷山・志村予想」は「志村予想」でしかないと志村は言う。私が志村と話をした時には彼はこうもいった、「だから事情を知っているプロの数学者に谷山・志村予想と呼ぶ者はいない。私自身これを「私の予想」と呼ぶ」と。(ここまで読んでくださった読者にはぜひ本連載第5回「フェルマーその頂上への遙かなる道~谷山豊に捧げるレクイエム~」も読んでいただきたい。)

世界を渡り歩いた数学者・志村五郎は、今米国に住み日本を忘れることなく日本人に語りかける。余計なことは決して他人には語らない志村でも、語らなくてはいけない血の気が騒ぐこともある。それは事実と異なる主張に対してである。特に“権威ある年寄り”による祖国日本の未来に関わり、そして危惧される重大な言説には真っ向立ち向かう。冒頭の言葉は71歳の志村が2001年に読売新聞に自ら投稿した文であった。

 ことあるたび日本の“権威ある年寄り”たちが自らの祖国をけなす態度に怒りを覚えてきた志村は、またしても聞き捨てならない言葉を目にした。2000年ノーベル賞をとった日本人科学者が、「まねて応用するのは得意だが、創造していないのが日本である」と新聞紙上に語っていたのだ。志村はこれに対して猛然と反駁した。米国から日本人、それも若者に対して次のメッセージを送ったのであった。
 昔から「日本人はまねはうまいが、創造力に乏しい」とよく言われる。特に、自然科学の分野では、今日でも著名な学者たちがそう言っている。果たしてそうだろうか。私はその逆に、日本人は世界で最も創造力に富む国民の中に入るのではないかと思う。歴史的にみて、欧米の科学知識を吸収するのに多くの労苦と時間を要したのは当然であって、それを前提として考えると、日本の科学者たちは実によくやっている。
(中略)
 もし、本当に日本人が創造力に乏しいというのなら、それを証明して欲しいものである。私にとって不可解なのは、著名な学者までが自国民をけなしている態度である。
 考えてもみよ。世界のどこにそんなことを言って喜んでいる国があるか。その上、以前からこの問題を教育方法と結びつけて論じる人がいるが、そこに大きな危険が潜んでいることを指摘したい。
 「丸暗記を廃して思考力を高めよ」というスローガンに反対する理由もないが、それを叫ぶのはほとんど無意味である。特に、そこから「教える分量を減らせ」という結論を引き出すのは誤りだ。
(中略)
 はじめに戻って欧米人について言うと、彼らの中には、日本人のまねをして、あたかも自分の独創のように上手に宣伝するものがいる。いまもって、彼らが全体としてそうした卑劣な能力を失ったわけではないから、日本人の仕事が公平に評価されていると思ってはならない。
 だから宣伝上手になれとは言わないが、若き世代へ私の忠言は、いかなる研究も中途半端にせず、どうしても認めさせずにはおかない水準にまで徹底的にやれということである。創造はしばしば徹底から生まれ、そしてまた、若き諸君にはそれができるはずなのである。
読売新聞2001年11月8日論点より
 このメッセージから8年が経った。今の日本は8年前と何かが変わったのだろうか。進歩したのだろうか。志村に聞けばきっと次の返事が返ってくるに違いない。
 「何も変わっていない。そのことについては8年前にすでに言ってあるからそれを読んでくれ」と。生ける真の職人、数学者志村五郎は今もなお進化し続けている。米国で、日本を思いながら。
※これで近現代日本人数学者列伝を終わります。次回からは新シリーズが始まります。
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参考